映画の中の哲学 トリビアと過去講座の作品リスト
映画の中のトリビア
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「靴の話」
通年の『映画の中の哲学』で取り上げた『マイフェアレディ』と『麻雀放浪記』にはよく似たシーンが出てきます。
『マイフェアレディ』冒頭では、コベントガーデンで花を売り歩くイライザ(オードリー・ヘップバーン)の言葉を記録していたヒギンズ教授(レックス・ハリソン)が、労働者たちから「刑事では?」と疑われます。一人の男が足下を見て、「デカじゃねえ。靴が上等だ!」と言います。
『麻雀放浪記』では、賭け麻雀をするため秘密クラブを訪れたドサ健(鹿賀丈史)と坊や哲(真田広之)の足下を、マネージャー(笹野高史)がカウンター越しに跳び上がって確認します。靴の汚れを見たのです。
刑事といえば「足で捜査する」のが仕事。必然的に靴はボロボロになってしまいます。そこで裏社会では「靴が汚れているのは刑事」という常識ができたのでしょう。
昔、ハリウッドの歴史を回顧する展覧会があって、そこでフレッド・アステアのダンスシューズ(実物)を見たことがあります。履き潰されて見事にボロボロになっていました。天才アステアの踊りは、超人的な練習から生まれたのですね!
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「映画に出てくるアーティスト」
2013年に講座で扱った『ミッドナイト・イン・パリ』では、1920年代のパリにいたアーティストが総出演していました。ピカソ、ダリ、ブニュエル、ヘミングウェイ、ガートルード・スタインなど。
顔や服装を似せるのも大事ですが、「本人が今いたら、いかにも言いそうな台詞」も興味深い。ウッディ・アレン監督はそういう芸にかけては名人。作品の所々に「濃い台詞」が出てきます。スタインがピカソをこき下ろすところなんか最高ですね。
昨年扱った『プラダを着た悪魔』では、フランケル監督がファッション業界の裏側を暴いています。作中にはヴァレンティノ・ガラヴァーニなどの実在のデザイナーが出てきますが、私は業界人でないので顔はよくわかりません。涙。しかし、電話をとった主人公がわけもわからず「ガッバーナってどう綴るのですか?」と相手に聞くところは大爆笑。
SFコメディ『メン・イン・ブラック』にはお約束の「地球に潜入している宇宙人や秘密エイジェント」がたくさん出てきます。マイケル・ジャクソンが本人の希望で出演したのは納得。変だもんね。先日テレビ放映もされた第3作にはアンディ・ウォホール(に扮した役者)がエイジェント役で登場しています。「もう作品のネタがなくなってスープ缶ばかり描いてる」と嘆くアンディ。そうだったのか。
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「雨にも色々」
激しい雨と言えば『七人の侍』(黒澤明1954)の戦闘シーン。土砂降りの中で泥まみれになりながら戦う野武士たちの気迫が表現されていました。
同じ戦闘シーンでも『ブレードランナー』(リドリー・スコット1982)の終幕では、未来都市のシトシト降る酸性雨に打たれながら、人間とレプリカント(クローン人間)が戦います。それは人間扱いされないレプリカントたちの哀しみを表わす雨でしょう。
恋の雨もあります。『サウンド・オブ・ミュージック』(ロバート・ワイズ1965)の若い恋人たち、ロルフとリーズルの庭園デートの邪魔をする夕立。(もうすぐ17歳。それもまた楽しい。)
しかし『シェルブールの雨傘』(ジャック・ドゥミ1964)で軍港の街に降る雨は悲恋の象徴。戦争が恋する二人を引き裂きます。私たちが戦争を止めない限り、この悲劇は終わりません。
できることなら、この季節の雨も『雨に唄えば』(ジーン・ケリー&スタンリー・ドーネン 1952)のように歌って、踊って、楽しんでしまいたいですね。
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「長く暑い夏」
夏は暑い! だからちょっとおかしくなる人もいます。
ムシムシする夏の工場街の安アパート。そこから丘の上の冷房が完備された豪邸を毎日見ている青年。彼が計画した周到な誘拐事件が『天国と地獄』 (黒澤明1963)のテーマです。べったりと乾かぬ汗が、屈折した無給医局員の額や首筋を伝います。「お前はまだ自分という者になっていない。ここからが俺なんだ!」と部下に言い放つ三船敏郎もかっこいい。
『異邦人』(ルキノ・ヴィスコンティ1967)では、アルジェの太陽の下で、主人公ムルソーがアラブ人を射殺してしまいます。裁判で彼は「なぜそのような行動をとったか」について全く説明できない自分に対面します。「太陽がまぶしかったからだ」と答えるしかなかった彼は、死の受け入れという「実感」を初めて経験します。
暑い夏は日本人にとって戦争を思い起こす季節です。『ひめゆりの塔』(今井正1953)は 1945年3月から6月19日にかけて米軍が上陸した沖縄で、ひめゆり部隊として陸軍病院に配属された女学生たちの凄絶な最期を描いています。第一作の撮影は占領下の沖縄ではできず、セットと国内ロケで作られました。
映画から62年が経つのに、沖縄の現状はまだ「戦中・戦後」のままです。今年の夏も、沖縄の人々は焼け付くように暑い毎日を過ごさなければならないのでしょうか。
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「夏と言えば海!」
海は生命の故郷。すべての生き物は海から生まれたのです。
海洋学者でアクア・ラング(スキューバ・ダイビング)の発明者、ジャック・イブ・クストーはドキュメンタリー映画『沈黙の世界』(クストー&ルイ・マル監督 1956)で私たちを取り巻く海の神秘を世界に伝えました。科学映画なのに詩的で哲学的な仕上がりは、さすがフランス映画ですね。
中には『グラン・ブルー』 (リュック・ベッソン監督1988)のモデルになったジャック・マイヨールのように、深海まで素潜りして本当に「海と一体」になろうとする半魚人みたいな人もいます。(彼はフリーダイビングで108m潜水。)やはりフランス人だ。
しかし、海にはとんでもない怪物も潜んでいます。『ジョーズ』(スティーブン・スピルバーグ監督1975)が怖いのは、鮫という生き物のせいではなく、目の届かない暗い深海からやってくる存在の不気味さによるのでしょう。
それでは巨大鮫より怖いものは何か。答えは「人間」です。『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン監督1960)では、大金持ちの友人を殺して本人になりすました青年が完全犯罪の成功を信じて地中海のバカンスを楽しみます。結局、彼は海に裏切られるのですが。
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「医療の映画」
映画のテーマとして医療が描かれることも多いですね。黒澤明の名作『赤ひげ』1965では、目の前の患者を助けることと長崎留学で新しい技術を身につけることの倫理的葛藤が描かれます。冒険をしなければ医学の進歩はないけれど、それは時に患者をより苦しめる結果になります。
『レナードの朝』1990は新薬をめぐる冒険でした。患者は治療の可能性にすがり、医師は治療と実験の境界に悩むのです。
現代の医学では治せない病に対しては、様々な受け入れ方があります。『愛と死をみつめて』1964、『ある愛の詩』1970などは、恋人たちの短くも激しい愛の輝きをセンチメンタルに描きました。
しかし、冷徹に運命と対峙し、安らかな死を選ぶ知識人をテーマにした『みなさん、さようなら』2003はユーモアの中にも自分の生と死を客観視する厳しさに満ちています。
医学の父ヒポクラテスは、医術を医師と患者の共同作業と考えました。科学が暴走して『フランケンシュタイン』1931の怪物や『アウトブレイク』1995のウィルスを生み出さないように、医療に関わるみんなが生命の尊重という原点を大切にしたいですね。
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「映画とコンピュータ」
昔のSF映画ではコンピュータが多くのランプの点滅する装置として描かれています。『禁断の惑星』1956に出てくる宇宙人の残したコンピュータも、ランプとアナログ計器で構成されています。
それが画期的に変わったのは、何といっても『2001年宇宙の旅』1968でキューブリックとクラークが描いた、ディスプレイに全てが表示されるデジタル・コンピュータでしょう。当時はそのような装置がなかったにもかかわらず、キューブリックは30年後のデジタル技術を見事に予想し、映像化しました。この作品にはスペースシャトルや液晶テレビ、音声入力システムなど、その後実現した未来技術がたくさん登場します。
映画の製作にコンピュータが使われたのは『スターウォーズ』1977の頃からですが、『トロン』1982のようにCGだけで全編を製作した、実験映画のような商業映画もあります。制作費の大部分が当時のスーパーコンピュータの使用料だったと言われています。今なら小学生にも作れそうな映像から、現代のフルCGは出発したのです。
最近はコンピュータの開発者を描いた映画も作られています。『エニグマ』2001や『イミテーション・ゲーム』2014は暗号解読に活躍した英国の数学者アラン・チューリングが主人公。彼は電子計算機の原型「ボンブ」を設計しました。
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「映画と素人」
職業俳優の代わりに、素人に演技をさせる手法を「ティパージュ」と言います。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』1925の軍医はホテルのストーブ番であり、『十月』1928のレーニン役はソビエトの地方委員だったそうです。
素人をわざわざ使うのは、プロの俳優の演技が時には新鮮味に欠けた、ありきたりなものになってしまうからでしょう。
ロベール・ブレッソン監督の『少女ムシェット』1967では、貧しく悲惨な生活を送るムシェットを素人の少女が演じることによって、哀しいはずの映画に温かみが付け加えられるのを感じます。
同じ監督の『抵抗』1956で主人公=脱獄するレジスタンスを演じたのは、ソルボンヌの哲学科学生フランソワ・ルテリエでした。
ダーレン・アロノフスキー監督は、事実上のデビュー作『π』1998の主人公=数学者マックス・コーエンにぴったりの人物を母校ハーバード大学構内で物色し、遂にショーン・ガレットを探し当てました。
映画においてティパージュが可能なのは、舞台と違って短いショットの積み重ねで制作されているからです。(長い台詞は不要。)
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「作家の映画」
創作活動の背景について描いた映画は結構あります。ケン・ラッセルの『ゴシック』(1986)はメアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を書くことになったいきさつを描き、『カポーティ』(2005)はトルーマン・カポーティが『冷血』を書いた事情を描いています。どちらも創造のきっかけはドラッグやアルコール。あまり褒められません。
映画監督ネタを挙げれば『ヒッチコック』(2012)がユニーク。アルフレッド・ヒッチコック 監督の傑作『サイコ 』製作の舞台裏を描いた作品です。映画の中で映画が撮影されています。こういうのをメタ物語と呼びます。アンソニー・ホプキンス、 ヘレン・ミレン、スカーレット・ヨハンソン など、豪華な出演者。
ただし、この映画の主題は監督夫婦の物語。実生活はホラーじゃなかった。
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「発達障害の映画」
いわゆる発達障害の人を描いた映画もたくさんあります。『フォレスト・ガンプ/一期一会』1994の主人公は知能指数が低い(足は速い)ということになっていますが、大学を卒業しているところから見ると一部の学習が苦手な学習障害(LD)だと思われます。
『レインマン』1988でダスティン・ホフマンが演じたサヴァン症候群のレイモンドは通常のコミュニケーションがほとんどできませんが、読んだものは全て暗記してしまいます。
『リトルマン・テイト』1991の主人公である少年テイトはいわゆる天才児(プロディジー・チャイルド)で「障害」とは無縁な感じがします。しかし、周囲の社会とうまく協調できないのでケアが必要な子どもです。
一方、大人になっても極端に子どもっぽい人がいます。『未知との遭遇』1977の電気技師ロイや『アマデウス』1984のモーツァルト、『イミテーション・ゲーム』2014のアラン・チューリングは、その空気の読めなさや予測できない行動で周囲の人から嫌われます。彼らはアスペルガー症候群や注意欠如・多動性障害(ADHD)かもしれません。
これらユニークな人たちがいなかったら、世界はつまらないと思いませんか?
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「画家の映画」
絵描きの映画も名作がありますね。ロートレックを描いた『赤い風車』1952ジョン・ヒューストン監督。カーク・ダグラスが演じた『炎の人ゴッホ』1956ヴィンセント・ミネリ監督。チャールトン・ヘストンがミケランジェロを演じた『華麗なる激情』1965キャロル・リード監督。
と見てくると、いずれも名監督ばかり。アカデミー賞にもノミネートされている作品です。『赤い風車』はアカデミー美術賞を獲得しているし、『炎の人ゴッホ』でゴーギャンを演じたアンソニー・クインはアカデミー助演男優賞を受賞しています。
画家の映画だけに美術に手間と費用をかけた作品が多いのも特徴。『カラヴァッジョ』1986デレク・ジャーマン監督。『真珠の耳飾りの少女』2003ピーター・ウェーバー監督。などでは、有名作品が制作される様子を再現することが一つの見どころになっています。
演じる側も力が入るようです。アンソニー・ホプキンスが怪演した『サバイビング・ピカソ』1996ジェームズ・アイヴォリー監督ではピカソの女性関係が赤裸々に描かれ、『宮廷画家ゴヤは見た』2006ミロス・フォアマン監督ではナタリー・ポートマンが汚れ役を演じています。
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「暗殺の映画」
ありがたくないことですが、歴史に暗殺はつきものです。『クレオパトラ』 1963 ではシーザーが暗殺されます。『ブルータスよ!お前もか!』 の有名な台詞はちゃんとラテン語でet tu,Brute!と語られます。
『ダラスの熱い日』 1973 はもちろんケネディ大統領暗殺事件。あまりに謎が多いので、その後も『JFK』 1991 や『パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間』 2013 などのケネディ暗殺映画が作られました。
『暗殺者のメロディー』1972 は、ロシア革命の英雄でありながら政敵スターリンに暗殺されるレオン・トロツキーをリチャード・バートンが演じた作品。暗殺者は20世紀のイケメン代表アラン・ドロン。
成功しなかった暗殺事件もあります。ヒトラー暗殺計画を描いた『ワルキューレ』 2008 はフォン・シュタウフェンベルク大佐らによるヒトラー爆殺未遂事件(7月20日事件)を描いたもの。
これらは史実ですが、まるで事実のようなフィクションがド・ゴール仏大統領暗殺をテーマにした『ジャッカルの日』 1973。原作者フレデリック・フォーサイスは実際のド・ゴール暗殺未遂事件と結びつけて、プロの暗殺者ジャッカルをリアルに造形しました。こうしたプロが失業する世界は来るか?
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「思春期の映画」
思春期の少年少女 は不安定な自我を何とか持ちこたえようとして足掻き苦しみます。古典と言ってもよい『理由なき反抗』1955では、大人から切り離された自分たちだけの世界を必死に守る10代が描かれています。
『ウェストサイド物語』1961の結末は、そうした不安定さに移民問題がからんで、遂に暴力の悲劇につながります。
少女たちの悩みは特に複雑で、『17歳のカルテ』1999には親との葛藤、社会との葛藤から心身のバランスを崩した様々な少女(入院中)が登場します。実体験から書かれた原作も含め、現代の一面を鋭く切り取っている作品と言えるでしょう。
思春期の精神を赤裸々に描くと問題作品になることもあります。『小さな悪の華』1970は宗教や道徳に対する少女二人の反逆と屈折した友情を描き、反社会的な映画とみなされて本国フランスでは上映できませんでした。
同じ「入院」でも、少年院に入った若者をリアルに描いたのが『不良少年』1961です。「矯正施設」としての性格が強い、戦後間もない少年院が舞台でした。
寺山修司が脚本を書いた少年院ドラマ『サード』1978になると、豊かになった社会で生きがいを見失った大人たちの縮図のように、少年たちも孤立し悩みます。思春期の映画は時代を映しているのですね。
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「ミュージシャンの映画(1)」
音楽家にはドラマティックな人生をたどった人が多く、ミュージシャンをテーマにした映画もたくさんあります。まずはポピュラー音楽からいきましょう。
夏の講座で扱う『ローズ』1979は夭逝のロック歌手ジャニス・ジョプリンをモデルにした作品で、ミュージシャンのベット・ミドラーが純粋ゆえに孤立していく主人公を熱演・熱唱しています。主題歌のRoseは今やスタンダードナンバーです。
名曲を生んだという点では、『愛情物語』1955がピアニスト、エディ・デューチンと妻の美しくも儚い人生を描いています。カーメン・キャバレロによって甘く弾かれるTo Love Againはショパンのノクターンを編曲したもの。その前年には『グレンミラー物語』1954、翌年には『ベニーグッドマン物語』1956が公開されていますから、戦後の解放された空気の中でアメリカの音楽映画が大いに発展した様子がわかります。
コンサートそのものを映画にした傑作もあります。『真夏の夜のジャズ』1960は1958年に開催された第5回ニューポート・ジャズ・フェスティバルを記録したドキュメンタリー映画。セロニアス・モンクほかのジャズマンが実にかっこいい!
伝説のロックコンサートを記録した『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』1970は、マイケル・ウォドレー監督、マーティン・スコセッシ編集で第43回アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞。同じ年に公開された『エルビス・オン・ステージ』ともども、現地に行けなかった音楽ファンに、映像ならではの熱狂が伝わったのでした。
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「ミュージシャンの映画(2)」
今回はクラシック音楽の作曲家や演奏家を描いた映画について見てみましょう。
大御所としてはモーツァルトの後半生を描いた『アマデウス』1984があります。当時のウィーン宮廷作曲家サリエリとの確執をテーマにしたピーター・シェーファー(先ごろ亡くなりました。) の戯曲が原作です。日本では、英語の原作を読んであまりの面白さに感動した江守徹さんが自分で翻訳し、自からモーツァルトを演じてしまいました。サリエリは松本幸四郎が好演。
ロマン派の巨匠を描いた『マーラー』1974は悲劇的な雰囲気を漂わせています。ユダヤ教からの改宗やワグナーの反ユダヤ主義との対立など、現代に通じる苦悩です。監督はユニークな作品ばかりのケン・ラッセル。この作品、カンヌで上映されましたが、日本ではなんと1987年まで公開されませんでした。
演奏家では『永遠のマリア・カラス』2002が天才歌手の光と影を描いています。監督はやはり巨匠フランコ・ゼフェレッリ。栄光の時代が重荷になった晩年のカラスを再現しています。
病に苦しむ音楽家を描いたのは『本当のジャクリーヌ・デュ・プレ』1998。天才チェリストでありながら多発性硬化症という不治の病に苦しむ個性的な女性をエミリー・ワトソンが演じました。しかし、ジャクリーヌの性的逸脱や精神的混乱を赤裸々に描いたため(原作は彼女の姉)、友人の有名音楽家たち、夫であったピアニストで指揮者のバレンボイムらの反発も激しく、フランスでは公開されませんでした。不幸なのは天才の運命なのでしょうか?
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「食べ物の映画」
おいしいものを食べると幸せな気持ちになります。まずいものを食べると腹が立ってきます。食べ物は人間精神のあり方と表裏一体と言えます。当然、食べ物にまつわる映画も古くから作られてきました。
名画では『歴史は夜作られる』1937。主人公が給仕長をしているので料理にうるさい。初めて見た時は「ブイヤベースって何?」と疑問に思いました。ちなみにウィキペディアには「ブイヤベース(bouillabaisse)は地元の魚貝類を香味野菜で煮込む、フランスの寄せ鍋料理。」と書いてあります。
忘れられないのは『バベットの晩餐会』1987で紹介される最高級フランス料理でしょう。パリ・コミューンの混乱を逃れてきた女性シェフが、宝くじの賞金1万フランを使って料理した晩餐会のコース。質素な食事しかしたことがない寒村の村人全員が心から幸せになります。映画の中で出された料理のメニューはウミガメのコンソメスープ、ウズラとフォアグラのパイ詰め石棺風黒トリュフのソースなど。シャンパンがヴーヴ・クリコの1860年、赤ワインがクロ・ヴージョの1845年など。聞いただけで食欲をそそります。
お菓子もバカにできません。『ショコラ』2000は魔法のチョコレートをテーマにした映画。フランスのある村に現代の「魔女」が娘を連れてやってきます。小さなパティスリーで彼女の調合する様々なチョコレートは「決まり」に縛られた頑なな人々の心をやさしく、情熱的に開いていきます。
鬼才シュワンクマイエル監督の『悦楽共犯者』1996にはチェコの変わった食べ物が出てきますが、最近輸入されているらしい。食べなければ!
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「スポーツの映画」
体育の日がある10月はスポーツの月。映画でもスポーツは主要テーマの一つです。
オリンピックと言えばすぐに思い浮かぶのが『炎のランナー』1981。オリンピックの草創期を描いた名作。今と違ってスポーツが純粋な貴族趣味だった時代。お金でコーチを雇って勝つアメリカ流のスポーツに眉を顰めるイギリス選手たち。ケンブリッジ大学の学生、ハードルの上にシャンパングラスを載せてこぼさないように跳ぶ青年貴族、若き聖職者など、選手も様々です。日曜日には競技をしない牧師さんや腕を振り回す100m走のフォームなど、現代との差に驚かされます。音楽も含めアカデミー賞を4部門受賞。
実際のオリンピックの記録映画としては市川崑『東京オリンピック』1965が印象的ですが、ヌーベルバーグ的な演出に政治家からクレームがつき、複数の編集バージョンが生まれることになってしまいました。
しかし、グルノーブルの冬季オリンピックを描いた『白い恋人たち』1968は、記録映画らしからぬ映像美とフランシス・レイの音楽がマッチして世界的ヒットに。監督クロード・ルルーシュは市川崑作品に影響を受けたと語っています。
スポーツは映画スターも生み出しました。ターザン俳優ジョニー・ワイズミュラーや『水着の女王』エスター・ウィリアムズは水泳のメダリストです。アーノルド・シュワルツェネッガーも元はボディビル選手ですね。日本では宇津井健が早稲田の馬術部出身。最近は細い俳優が多いので、若い人には体をしっかり作ってほしいと思います。プロだもんね。
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「秋の映画」
秋は、季節の一つであると同時に、人生の秋を象徴しています。
『秋のソナタ』1978はイングマール・ベルイマン監督、イングリッド・バーグマン主演(最後の作品)の名作。娘が毒親だった母を責めるという内容は最近でこそよく聞く話ですが、この映画は70年代にその主題を扱っているところがすごい!
『黄昏』1981は黄葉の美しい湖畔で繰り広げられる、こちらは父(ヘンリー・フォンダ)と娘(ジェーン・フォンダ)の葛藤です。幼い頃から否定的な父親に認められたいと努力してきた娘が、病に倒れた父とやっと和解する物語。
『第三の男』1949は終戦後の混乱期、秋のウィーンで繰り広げられるサスペンス。ラストシーンでプラタナスの落ち葉が舞う並木を一直線に歩いてくるアリダ・ヴァリと無視されるジョゼフ・コットンが強烈な印象を残します。ヴァリの帽子とコートの着こなしがカッコいい!
『秋刀魚の味』1962は小津安二郎監督最後の作品。定年も近い父親(笠智衆)は妻に先立たれ、身の回りの世話は娘(岩下志麻)に依存しています。昔の話なので、気になるのは娘の結婚適齢期。本音では嫁にやりたくないけれど、本人の幸せを考えると結婚してほしい。揺れる親心は今でも変わらなのでしょうか?
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「雪の映画」
最近は季節感というものがありません。酷暑の夏が過ぎると、秋を通り越していきなり真冬の寒さがやってくるような気がします。
それでも、雪が降ると少しは情趣も出てきます。『ホワイト・クリスマス』1954はビング・クロスビーの名曲であまりにも有名。雪のクリスマスを夢見る歌詞ですが、東京では滅多にないかも?アメリカがヴェトナムから完全撤退した時、真夏のラジオから合図に流されたのはこの曲でした。
クリスマスと言えば『グレムリン』1984が日本で公開されたのは12月。骨董店で父親が購入したかわいいクリスマスプレゼント=「謎のペット」が飼い方を守らなかったために怪物に変身する物語です。劇中でフィービー・ケイツのお父さんが亡くなった事情が語られますが、サンタクロースの扮装をして煙突に閉じ込められたのが死因。冬の悲喜劇です。
日本人にとって12月と雪から連想するのは『忠臣蔵』。1932年の衣笠貞之助監督作品(忠臣蔵映画の中では初のトーキー)以来、たくさん制作されています。その時代の代表的男優・女優が出ているのは面白い。ただ、事件の解釈が忠義一辺倒では陳腐になってしまいます。鶴屋南北は歌舞伎『東海道四谷怪談』でユニークな忠臣蔵を生み出しました。(田宮伊右衛門は困窮する赤穂の浪人)。血の流れる討入りよりはロマンティックな雪がいいですね。
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「リメイクされた映画」
名作映画はよくリメイクされます。問題はリメイクされた作品が元の作品同様に高い評価を受けるかということです。SF作品で考えてみましょう。
『遊星からの物体X』1951年と1982年。旧版の日本語題名は『遊星よりの物体X』。原題はThe Thingなので「物体」ですね。どちらも悪い宇宙生物が人間を襲うというホラー映画。旧作は科学賛美のちょっと能天気な作品。新作はB級の巨匠ジョン・カーペンター監督だけあって、特撮のメカがすごい。新作の勝ちでしょう。
『地球の静止する日』1951年と2008年。新作邦題は『地球が静止する日』。助詞だけ違う。旧作のロバート・ワイズ監督作品は宇宙人を知性的で平和的に描いています。激しくなる冷戦の時代にグローバルな視点を重視した作品。思想的には旧作が優れていると思います。
『猿の惑星』1968年と2001年。旧作は『2001年宇宙の旅』を抑えてアカデミーのメイクアップ賞を受賞。核戦争後のディストピア(楽園の逆)という現代SFのテーマを定着させ、以後の映画に大きな影響を与えた点で旧作の勝ち。
『タイムマシン』1960年と2002年。旧作邦題は『タイムマシン 80万年後の世界』でした。新作は原作者HGウェルズの曾孫が監督ということで話題に。しかし原作の文明批評が乏しく、物足りない内容。旧作は「他人に無関心な人々」「本を読まない若者」など、リアルに近未来を描いており、考えさせられる内容。これも旧作が深い。
CGの技術がいくら発達しても、映画はやはり映像の言語です。脚本・撮影・編集・演技・美術が一体になって、初めてよい作品になると言えますね。
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「ウソのような事実の映画」
「事実は小説より奇なり」と言いますが、歴史を動かした人物の伝記的映画には傑作が多いです。その中から三本取り出して考えてみましょう。
『アラビアのロレンス』1962デビッド・リーン監督 は第一次大戦時の英国軍人.T.E.ロレンスの自伝『知恵の七柱』を元にした伝記的映画。砂漠の風景が見事に撮影され、絵画的なスペクタクルに仕上げられています。今日の技術ならばCGで処理するところでしょうが、CGではあの美しさや壮大さは表現できません。ロレンスはオックスフォード出のインテリ将校で、英国軍はなんと彼を自由に行動させ、アラブの情報を得ようとしました。アラブを愛しながら大英帝国に利用される矛盾。映画はロレンスの複雑な胸中やカリスマ的な人間性をよく表現しています。アカデミー賞7部門を受賞した大作です。
『ガンジー』1982 リチャード・アッテンボロー監督 は誰もが知っている20世紀の偉人マハトマ・ガンジーの活動を描いた映画。ガンジーについてはよく知っているつもりでも、映画を見ると改めてその偉大さに感服してしまいます。印象的なエピソードですが、インドの自立のために、ガンジーは英国から買う衣服を拒否し、英国が専売していた塩を自らの手で作る運動をします。内陸から海岸まで380キロを歩き通す塩の行進は78人で始めて途中から無数の人々が加わりました。誰よりも速く歩いたと言われるガンジーが先頭に立って村々の参加者を吸収していく様子は、まるでフィクションのようですが、紛れもない事実です。
『トランボ』2015ジェイ・ローチ監督は第二次大戦後の米国に吹き荒れたマッカーシズム(赤狩り)に抵抗した反骨の脚本家、ダルトン・トランボを描いた作品。共産主義に共鳴している疑いのある市民を片っ端から摘発し、投獄したり職場から追放したマッカーシー議員と非米活動委員会。メディアも業界も沈黙したり迎合する中、トランボは証言を拒否し、入獄し、職を失います。彼のすごさはそれに失望せず、変名で脚本を書きまくり、仲間の面倒も見たこと。
これらの人物の共通点は何でしょう?それはいい意味での「頑固さ」ではないでしょうか。頑固に理想を追求することで世界を変えたのです。
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「知的障碍をもつ人を描く映画」
映画にはヒーローがつきものですが、少数派の人々を主人公にした映画にも名作があります。『道』1954フェデリコ・フェリーニ監督では、旅芸人のザンパノ(アンソニー・クイン)が相棒の女が死んだため、その姉妹のジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)をタダ同然で買い取ります。粗野で暴力的なザンパノは、やや知恵遅れで人のよいジェルソミーナにひどい扱いをします。ザンパノに失望して放心状態となったジェルソミーナを置き去りにして彼は去りますが、数年後に彼女が孤独のうちに死んだことを知り、初めて純真な人を失った悲しみに襲われます。
知的な障碍をもった人が別の才能を発揮することもあります。『裸の大将』1958堀川弘通監督は、画家の山下清を主人公にした映画です。精神科医式場隆三郎によって広く紹介された山下清の画業は、それまでの障碍者に対する見方を変えるものでした。山下画伯には軽度の知恵遅れがありましたが、映像的記憶力に優れ、日本全国を放浪しながら感動した風景を貼り絵などの表現法で作品化しました。ところで、毎年夏に池袋西武で『東京都障害者美術展』が開かれていますが、あまり知られていないのが残念です。いつも力作が展示されています。
以前講義で取り上げた『アルジャーノンに花束を』1968ラルフ・ネルソン監督は、知的障碍を治療するというダニエル・キイス原作のSFです。クリフ・ロバートソンは実際の支援学校や研究機関の協力で障害を持つ人々に接し、主人公をリアルに演じました。一歩間違えば差別表現につながってしまう難しい演技をこなし、彼はアカデミー主演男優賞を獲得しました。
映画の中のトリビア
「映画の理論1」
映画が「映画芸術」として認められるには、芸術に不可欠な要素を満たす必要がありました。それは歴史・表現形式・理論的解釈です。リュミエール兄弟やジョルジュ・メリエスが映画を開発した頃は、映画は「見世物」でした。文字通り「活動写真」という受け止め方をされていたのです。
それが芸術的表現を獲得したのは、ロシア革命と深く関わっています。セルゲイ・エイゼンシュテイン(1890~1948)監督が『戦艦ポチョムキン』『10月』『アレクサンドル・ネフスキー』などの作品で、単なるプロパガンダ(宣伝)を超えた映画の文法を示したからです。
映画では焦点距離の異なった撮影レンズを使い分けて「クロース・アップ」(クローズ・アップは発音が間違っています)「ロングショット」「広角撮影」「パン・フォーカス」(絞りこんで近景と遠景両方にピントを合わせる)などが可能ですが、なぜそれが効果的なのか、エイゼンシュテインは制作者の意図と技法の関係を説明しました。人物を画面いっぱいに大写しにしたり、遠くから大勢を撮ったりするのは、視点の移動を意味し、心理的な効果と強く結びついているのです。例えば、大写しは対面している感じ、ロングショットは鳥になった感じですね。
同様に映画では編集(モンタージュといいます)も非常に重要です。同じフィルムでもシーンのつなぎ方を変えると全く別の表現になるからです。監督は観客の視線や注意を集め、心理に強く訴えるために最良のつなぎ方を考えます。これは「アトラクション(吸引)のモンタージュ」として有名な理論です。その効果については次号でお話ししましょう。
映画の中のトリビア
「映画の理論2」
6月号に続き、映画の理論について説明します。今回は編集(モンタージュ)について。犯罪捜査でモンタージュ写真と言えば、顔のパーツを別々に組み合わせて犯人の似顔を作ることを言います。映画でモンタージュと言えば、フィルムを切って、つなぎ直すことです。
例えば、遠くから撮った人物が映っているシーンの次に、その人物の顔だけが画面一杯に映ったら、観客は強い印象を受けるでしょう。その表情が悲しみや喜びなら、観客も人物に感情移入します。ドラマの進行は全体を画面に入れて表現し、感情の説明にはクロースアップを使う。このような効果によって、映画は強い表現力をもちました。名監督セルゲイ・エイゼンシュテインはこれをアトラクション(吸引)のモンタージュと呼んでいます。『戦艦ポチョムキン』1925はそのお手本です。
編集は映画の中の時空間も表現します。『2001年宇宙の旅』1968でスタンリー・キューブリック監督は、数百万年前の世界で猿人が投げ上げた骨が落下するシーンに、いきなり地球を回る人工衛星の映像をつなげました。1968年にこの映画を観た人々は、太古の世界から一気に2001年の近未来へと、時間をジャンプしたのです。この編集によって、観客は本当にタイムマシンに乗っているような感覚を味わうことができたわけです。
作家が文章を何度も書き直すように、映画監督は思い通りの作品ができるまで、切ったりつないだりを繰り返します。そのためには、様々な撮り方をした場面(カットという)がたくさん必要です。しかし、あまり多く撮ると撮影費がかかり過ぎ、完成した作品があまりに長いと映画館から苦情が出ます。(上映回数が減るから。)黒澤明監督が会社から作品を短くしろと命じられ、「フィルムを切るなら縦に切れ!」と言ったのは有名な話です。
映画の中のトリビア
「映画の理論3」 視点について
映画は「だれかの目」から見た画面を映すものです。演劇の場合は舞台の一方の壁が観客に向かって開かれており、観客は開かれた側からしか舞台を見ることはできません。
しかし、映画の視点、つまりカメラは自由自在に移動することができます。これは「人間の眼」としての表現力をカメラがもっているということです。様々な場所に移動して撮影すれば、観客はまるでそこに行ったかのような疑似体験をするのです。ルミエール兄弟が映画を発明して上映会を開いた時、列車の到着を正面から撮った映像に観客が逃げまどったという伝説は、それをよく示しています。
カメラが動くと、観客は自分が動いているように感じます。キューブリック監督は『2001年宇宙の旅』では月面のモノリスに向かって歩く調査隊を手持ちカメラで追い、『フルメタルジャケット』ではカメラが敵の潜む廃墟に突撃する兵士たちと共に走って迫真の戦闘シーンを撮影しました。固定撮影ではレンズと撮影距離にうるさい監督ですが、ダイナミックなシーンは手持ちカメラなのです。『2001年』には床にカメラを固定し、宇宙船のセット自体を回転させて無重力空間を表現する有名なシーンもあります。
逆に、固定されたカメラの視点がユニークなのは小津安二郎監督でしょう。彼は室内シーンを撮影する時、床の高さから見上げる構図を多用したのです。不思議なことに観客はあまり不自然さを感じません。いわば「猫の視点」で見た世界なのです。猫から見れば人間世界のドロドロも深い意味はありません。小津監督の視点は、そのような淡々とした人間観察なのでしょうか。ただ、撮影スタッフからすれば、床に近い位置のカメラ設置や照明・撮影は大変だと思います。撮影現場の写真を見ると、監督は寝っ転がり、首を捻じ曲げてカメラのファインダーを覗いています。首の筋が違いそうです。
映画の中のトリビア
「映画の理論4」 カットについて
映画の撮影と言えば、監督が大きな声で「スタート!」「カーット!」と叫ぶシーンを思い浮かべます。どのシーンを撮影したのかフィルムに記録するため、カチンコと呼ばれる小さな黒板にシーン番号を書いて、冒頭に写し込む様子もよく知られていますね。
カットは文字通りフィルムをそこで「切る」ことであり、そのような断片を編集してつなぎ合わせることで一本の映画が生まれます。一つのカットは一つの独立した場面です。
カットを多く入れると、場面が次々に変わる映像になります。アロノフスキー監督『π』1998のタイトル画面は、短いカットを組み合わせて情報処理のスピード感を出しています。キューブリック監督『シャイニング』1980では予知能力をもつ子どもが昔の殺人現場を見る場面に瞬間的な挿入カット(フラッシュ・バック)が使われ、恐怖感を倍増させます。
同じキューブリック監督が『2001年宇宙の旅』1968で用いたのはインターカットと呼ばれる技法。同時に起こっていることを、場面の切り替えで総合的に表現します。特に宇宙ステーションにスペースシャトルが近づいていくシーンは、カットの切り替わるタイミングと全てが回転する映像に『美しき青きドナウ』のワルツがぴったり重なり、映画史に残る美しさです。
ノーカット、つまり一つのカットで始めから終わりまで撮ってしまう作品もあります。ヒッチコック監督『ロープ』1948は切れ目のないストーリーが観客の時間と同時進行する実験的な作品。フィルムには長さに限度があるため、実際はつなぎ目が目立たないように編集されています。舞台劇を元にしていますが、よく考えると舞台は基本的にノーカット、あるいは少ないカットで構成されているわけです。
映画の中のトリビア
「映画の理論5」 移動撮影
映画が演劇と違う最大の特徴は「カメラの移動」でしょう。演劇の舞台は固定されたスペースを観客の側に開き、その中で事件が進行します。それに対して映画は、カメラが自由に移動し、観客はカメラと共に異なった空間に導かれます。
映画の初期にはカメラは手回し式で、1カットの撮影時間は短いものでした。技術が進むにつれてカメラは大型化し、動力を使って長尺のフィルム撮影が可能になります。そうなると、重量化したカメラは簡単に移動できません。
そこで登場したのが「ドリー」です。これはカメラ用の小型鉄道線路のようなもので、敷設したレールの上に台車を置き、カメラを載せて撮影します。俳優が動くと、台車を押してそのスピードに合わながら撮るのです。安定した撮影ができますが、設置は大変です。
上下の移動はクレーンによって撮影します。シーソーのように、片側にバランス用の重りをつけたクレーンの別の先端にカメラと監督、カメラマンを載せ、上下左右に動かします。アメリカ映画のエンドロールをよく見ていると、クレジットに「クレーン・オペレーター」という人が出てきます。この人がクレーンを運転しているのです。
設置に大掛かりな準備を必要とするドリーやクレーン撮影を変えてしまったのがカメラ軽量化と「ステディ・カム」です。キューブリック監督『シャイニング』1980では、手振れ防止装置の一種であるステディ・カムを身に着けたカメラマンが俳優を追いかけたり、走る正面から撮ったり、縦横無尽の移動撮影が行われています。(今ではデジカメや双眼鏡などにも応用されていますね。)ステディ・カムのヒントは蕎麦の配達に使う岡持ちホルダーだと言われています。日本の技術が映画の歴史を変えたのです。
【映画の中の哲学1】
第1回・科学と人間 初代の『ゴジラ』や『2001年宇宙の旅』を取り上げ、科学が人間の生活をどのように変え、人間性に影響を与えているのか考えます。
第2回・生と死『タイムマシン』や『史上最大の作戦』を取り上げ、人間は何のために生き、何のために死ぬのかを考えます。
第3回・「私」とは何か 『マイ・フェア・レディー』や『イージー・ライダー』を取り上げ、自分らしさとは何かについて考えます。
第4回・社会を変える 『戦艦ポチョムキン』や『エリン・ブロコビッチ』を取り上げ、共同体の中の合意形成について考えます。
【映画の中の哲学2】
第1回 π(ダーレン・アロノフスキー):世界がもしパズルだったら? 混沌とした世界を支配する「秩序」「法則」について考えます。
第2回 不思議の国のアリス(ウォルト・ディズニー):価値を逆転させて見えるもの 矛盾やナンセンスが文化に与える影響を考えます。
第3回 薔薇の名前(ジャン・ジャック・アノー):本の誘惑、知ることの陶酔 人間と書物の深い関わりについて考えます。
第4回 書を捨てよ街へ出よう(寺山修司):役者と観客の間には何がある? 演劇と人間性の関係を考えます。
第5回 アンダルシアの犬(サルバドール・ダリ+ルイス・ブニュエル):夢という超現実の世界 シュールレアリズムについて考えます。
第6回 禁断の惑星(フレッド・マクラウド・ウィルコックス):自分の中の他人=無意識 人間の心の構造について考えます。
第7回 ガタカ(アンドリュー・ニコル):個性は遺伝子が決めるのか? 私たちはどこまで環境に影響されるのかを考えます。
第8回 去年マリエンバードで(アラン・レネ):あなたは本当にあなたですか? 自我の確かさについて再検討します。
第9回 沈黙の世界(ジャック・イブ・クストー):自然という底知れぬドラマ 自然と人間の関係を考えます。
第10回 時計仕掛けのオレンジ(スタンリー・キューブリック):未来にあるのは絶望か、希望か? これからの社会について考えます。
【映画の中の哲学3】
春学期
1 真珠の耳飾りの少女
すばらしいアートが生まれてゆく過程を画家と共に探ります。
2 ローズ
破天荒なロック的生き方の中に埋もれている人生の真実とは?
3 エニグマ
第二次大戦中にコンピュータの原型が作られました。長く極秘にされた情報の戦いを考えます。
4 アルジャーノンに花束を
アタマの良し悪しと人間性には関係があるのでしょうか?
5 ジーザスクライスト・スーパースター
キリストはロックスター?宗教を現代の目で捉え直します。
6 ガンジー
時には人間の意志の力は大国の軍事力よりも強い。人を動かす力について考えます。
7 気狂いピエロ
若さは無軌道ですが悲劇的でもある。若さにまつわる不条理を考えます。
8 卒業
青年もいつか現実に直面します。大人になる、社会に出る、ということの表と裏は?
9 かっこうの巣の上で
現代の社会で正常と異常を明確に分けることができるのでしょうか?
10 サイダーハウスルール
人間は誰でも光と影を持って生きています。人間性の豊かさもそこから生まれます。
秋学期
11 リトルマン・テイト
どんな子どもにとっても母の愛はかけがえのない宝物です。
12 シャイニング
自分の中に他人がいて、それが恐ろしい姿をしていたら?人間心理の闇を考えます。
13 キューポラのある街
人生は苦悩の連続です。しかし困難があるからこそ人間的成長もあるのです。
14 真夜中のカーボーイ
都会の片隅で押し潰されそうになって生きる人々。しかしそこにも支え合いはあります。
15 生きる
人はだれも死を前にして人生の意味を考えます。残された時間をどう生きるべきでしょうか。
16 西部戦線異状なし
20世紀には科学の発達が戦争をより悲惨なものにしました。極限状態の人間性を考えます
17 Z
民主主義は常に挑戦を受けています。自由を愛する人々やジャーナリズムは独裁に勝てるでしょうか。
18 男のゲーム 他
独自のシュールレアリズムで社会批判を展開するシュワンクマイエル監督の世界を訪ねます。
19 アドルフの画集
ナチズムがなぜ大衆を惹きつけたのか。その出発点を考えます。
20 デッドゾーン
歴史は繰り返すのか?私たちは歴史から学べるのか?根本的な問を考えます。
【映画の中の哲学4】
春学期
第1回『俺たちに明日はない』:閉塞状況からの解放その1。大恐慌で社会が不安だった時代の生き方を考えます。
第2回『パルプ・フィクション』:閉塞状況からの解放その2。豊かな現代社会でも満たされない人間について考えます。
第3回『抵抗』:希望への闘いその1。戦時下の絶望的な状況で生き抜く人間について考えます。
第4回『パピヨン』:希望への闘いその2。極限状態から脱出する意志の力について考えます。
第5回『サイコ』:心の中の異世界その1。人間関係の原点である親と子の関係を深く考えます。
第6回『羊たちの沈黙』:心の中の異世界その2。誰の心にもある「未知の自分」について考えます。
第7回『第三の男』:命の価値その1。戦後混乱期の「命の重さ」について考えます。
第8回『ロード・オブ・ウォー』:命の価値その2。先進国の犠牲になる第三世界の「命の重さ」について考えます。
第9回『フル・メタル・ジャケット』:戦争の狂気その1。普通の人間が殺人機械に変えられていく過程を考えます。
第10回『マトリックス』:戦争の狂気その2。デジタル・ネットワーク社会の危機について考えます。
秋学期
11回 ベン・ハー:孤独な戦い1:信仰と人間の強さ
12回 グラディエーター :孤独な戦い2:反権力としての人間
13回 未来世紀ブラジル:管理社会と人間1:未来はどうなるか?
14回 善き人のためのソナタ:管理社会と人間2:身近な情報支配の恐怖
15回 オール・ザット・ジャズ:人生を振り返る1:芸能界の人生
16回 ニュー・シネマ・パラダイス:人生を振り返る2:映画と人生
17回 アマデウス:天才の不幸1:モーツァルト暗殺の真相
18回 パフューム:天才の不幸2:究極の香水とは?
19回 ダラスの熱い日:歴史と個人1:ケネディ暗殺とアメリカ
20回 瞳の奥の秘密:歴史と個人2:個人と歴史はどう関わるか?
【映画の中の哲学5】
春学期
第1回 『ミクロの決死圏』 私たちにとって、インナースペース(自分の身体)はなお未知の世界です。
第2回 『ブラジルから来た少年』 遺伝子工学は病を癒しますが、社会を思わぬ危険に導くこともあります。
第3回 『チャイナシンドローム』 原発事故の危険性は早くから警告されていました。なぜ誰も耳を貸さなかったのでしょうか。
第4回 『アンドロメダ…』 グローバル化の時代には感染症も至る所から(地球の外からも?)侵入してきます。
第5回 『バーディー』 戦争によって傷つくのは体だけではありません。深い心の傷と癒しについて考えます。
第6回 『冷血』 誰の心の中にも善と悪が住んでいるとしたら、どのように自らをコントロールしたらよいのでしょうか。
第7回 『トロン』 バーチュアル・リアリティ、インターネット、スーパー・コンピュータなど、出発点の姿を思い出してみましょう。
第8回 『家族』 家族という最も強い絆が危うくなっている現代。その原点を考えます。
第9回 『野いちご』 死と向き合うことは避けられませんが、その向き合い方は人によって様々です。
第10回 『家族の肖像』 「老い」とは親しい関係から切り離されていくこと。その孤独とどのように戦えばよいのでしょうか。
秋学期
第1回 『ジョニーは戦場へ行った』 人間らしい生き方の限界について考えます。
第2回 『奇跡の人 』 障害を乗り越える生き方について考えます。
第3回 『華氏451』 本の文化を守る意味を考えます。
第4回 『独裁者』 自由を守る意味を考えます。
第5回 『明日に向かって撃て』 過去を振り返らない生き方について考えます。
第6回 『モーターサイクル・ダイアリーズ』 旅の意味について深く考えます。
第7回 『スター・ウォーズ 』 スペースオペラに仕組まれた神話的構造を考えます。
第8回 『バリー・リンドン』 人生における成功と失敗を考えます。
第9回 『12人の怒れる男』 人が人を裁くことについて考えます。
第10回 『砂の器』 出自をめぐる宿命について考えます。
【映画の中の哲学6】
春学期
第1回 恐るべき子供たち(ジャン=ピエール・メルヴィル監督)
現実と幻想1: 思春期の耽美的な憧れについて考えます。
第2回 ピアニスト(ミヒャエル・ハネケ監督)
現実と幻想2: 抑圧された欲望が生み出す幻想について考えます。
第3回 おはよう(小津安二郎監督)
日常の幸福とは?1: 私たちが忘れてしまった真の豊かさについて考えます。
第4回 5時から7時までのクレオ(アニェス・ヴァルダ監督)
日常の幸福とは?2: 人が死を意識する場面について考えます。
第5回 ロリータ(スタンリー・キューブリック監督)
愛の多様性1: 現代のAKB48にも通じる少女愛について考えます。
第6回 昼顔(ルイス・ブニュエル監督)
愛の多様性2: だれの心にも存在するいくつかの仮面について考えます。
第7回 エイリアン(リドリー・スコット監督)
恐れの構造1: 闇や怪物に対して感じる恐怖について考えます。
第8回 ローズマリーの赤ちゃん(ロマン・ポランスキー監督)
恐れの構造2: 生に深く根ざす不安や恐怖について考えます。
第9回 未知との遭遇(スティーヴン・スピルバーグ監督)
外の宇宙・内なる宇宙1: 未知の他者と出会う意味について考えます。
第10回 オルタード・ステイツ(ケン・ラッセル監督)
外の宇宙・内なる宇宙2: 心の中の宇宙について考えます。
秋学期
第1回 太陽(アレクサンドル・ソクーロフ監督)
権力者の憂鬱1:ロシア人監督が描く敗戦前後の昭和天皇の姿は新発見?違和感?
第2回 クィーン(スティーヴン・フリアーズ監督)
権力者の憂鬱2:ダイアナ妃事件で王室の存在理由を問われたエリザベス2世の苦悩を考えます。
第3回 ミッドナイト・イン・パリ(ウッディ・アレン監督)
追憶の意味1:過去には戻れないけれど、過去から現在を見直すことは可能です。
第4回 舞踏会の手帖(ジュリアン・ デュヴィヴィエ監督)
追憶の意味2:あなたは若い頃の理想を捨てずに生きていますか?
第5回 レスラー(ダーレン・アロノフスキー監督)
知られざる業界1:プロレスなんかインチキだ!と言わず、会社に頼らない生き方を見て下さい。
第6回 刑務所の中(崔洋一監督)
知られざる業界2:刑務所なんか入ったら普通の人生はオシマイです。でも服役って何のためにするの?
第7回 台風クラブ(相米慎二監督)
悩める青春1:中学生はオカシイです。ネットには「中二病」という言葉もあります。彼らとどう付き合う?
第8回 十七歳のカルテ(ジェームズ・マンゴールド監督)
悩める青春2:女子高生はアブナイです。何をするかわかりません。この時期を乗り越えられれば大人なんだけど。
第9回 家族ゲーム(森田芳光監督)
和解とは1:いつも手を取り合って感激しているような家族はウソくさい。本音を言ったらどうなる?
第10回 黄昏(マーク・ライデル監督)
和解とは2:喧嘩して、嫌われて、ボケて、それでも意地を張って素直になれない。人間はなんて愚かなのだろう!
【映画の中の哲学7】
2014年 春学期 テーマ:昔と今、どちらがいい?
第1回 若いっていいな1
『水の中のナイフ』監督:ロマン・ポランスキー 1962
第2回 若いっていいな2
『月曜日のユカ』監督:中平康 1964
第3回 昔のスパイはよかった1
『007は二度死ぬ』監督:ルイス・ギルバート 1967
第4回 昔のスパイはよかった2
『オースティン・パワーズ』監督:ジェイ・ローチ1997
第5回 我が道を行く1
『バベットの晩餐会』監督:ガブリエル・アクセル 1987
第6回 我が道を行く2
『下妻物語』監督:中島哲也 2004
第7回 音のない映画の意味1
『雨に唄えば』監督:ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン 1952
第8回 音のない映画の意味2
『夢見るように眠りたい』監督:林海象 1986
第9回 都会の孤独今昔1
『タクシードライバー』監督:マーティン・スコセッシ 1976
第10回 都会の孤独今昔2
『月はどっちに出ている』監督:崔洋一 1993
2014年 秋学期 テーマ:良くても、悪くても我が人生。
第1回 女性であることは罪?1
『プラダを着た悪魔』監督:デビッド・フランケル 2006
第2回 女性であることは罪?2
『ベティ・ペイジ』監督:メアリー・ハロン 2005
第3回 女も戦う!1
『タイピスト』監督:レジス・ロワンサル 2012
第4回 女も戦う!2
『ニキータ』監督:リュック・ベッソン 1990
第5回 中年からの出発1
『麻雀放浪記』監督:和田誠 1984
第6回 中年からの出発2
『お葬式』監督:伊丹十三 1984
第7回 病とは?治療とは?1
『レナードの朝』監督:ペニー・マーシャル1990
第8回 病とは?治療とは?2
『サイドエフェクト』監督:スティーブン・ソダーバーグ 2013
第9回 良くても、悪くても我が人生1
『ランナウェイ/逃亡者』監督:ロバート・レッドフォード 2012
第10回 良くても、悪くても我が人生 2
『クロワッサンで朝食を』監督:イルマル・ラーグ 2012
【映画の中の哲学8】
2015年 春学期
◎テーマ:アフリカは何処へ?
第1回 『マンデラ 自由への長い道』監督:ジャスティン・チャドウィック 2013
第2回 『ダーウィンの悪夢』監督:フーベルト・ザウパー 2006
◎テーマ:生き延びるための苦悩
第3回 『不良少年』監督:羽仁進 1961
第4回 『東京難民』監督:佐々部清 2014
◎テーマ:義理と人情の狭間で
第5回 『男はつらいよ(第一話)』監督:山田洋次 1969
第6回 『網走番外地(第一作)』監督:石井輝男 1965
◎テーマ:現代社会の隠されたメッセージ
第7回 『スーパーサイズ ミー』監督:モーガン・スパーロック 2004
第8回 『ゼイリブ』監督:ジョン・カーペンター 1988
◎テーマ:人間の敵は人間。そして味方も…
第9回 『それでも夜は明ける』監督:スティーブ・マックイーン 2013
第10回 『アルバート氏の人生』監督:ロドリゴ・ガルシア 2011
秋学期 正常と異常 そして境界
第1回 『ブリキの太鼓』 フォルカー・シュレンドルフ 監督(1979) 成長することを拒んだ子どもの視点から戦中戦後を考える。
第4回 『読書する女』 ミシェル・ドヴィル 監督(1988) 本を読むだけの不思議な仕事をする女性に何が起こったか。
第6回 『私が靴を愛するワケ』 ジュリー・ベナスラ 監督(2013) 女性にとって靴とは何かというドキュメンタリー。
今回の映画の中の哲学では「時間を見通す視野」について考えてみたいと思います。様々な歴史の局面で人間はどのように生きてきたのでしょうか。
各回の講義予定
芸術家の運命
1 カラヴァッジョ
2 宮廷画家ゴヤは見た
戦争と平和は繰り返す
3 ジャッカルの日
4 ある街角の物語
子どもたちの反乱
5 小さな悪の華
6 悪童日記
つらい時代の後で
7 グッバイ・レーニン
8 オーケストラ
大衆は誰を求めるか
9 オール・ザ・キングスメン
10 市民ケーン
秋学期
1 『東京オリンピック』 市川崑 1964
5 『白い恐怖』アルフレッド・ヒチコック 1945
9 『エディットピアフ』オリヴィエ・ダアン 2007
2017年春学期
今回の映画の中の哲学では「出会いと別れ」について考えてみたいと思います。いつの時代も人は偶然出会い、そして別れます。幸福も不幸もその間に生まれてくるのです。
◎名作と人間
第9回 猿の惑星