こんなのどう?
篠田教夫 個展を見る
篠田氏の個展をギャラリー椿で見た。鉛筆画に分類されるとはいえ、「描く」という範疇を超えた作品だ。
9Bの塗りつぶし平面から形象を「消し起こす」もしくは「消し削る」作業。
闇の中に如何に多様で複雑な存在群が眠り、淀んでいるのか。漆黒の豊かさをこれほど強烈に感じたことはない。
「離魂」とはこういうことなのか?イデアへの憧憬とはこれなのか?と自問した。
昭和レトロ商品博物館を訪ねる
青梅駅から出ると、すぐ前が青梅街道だ。片側一車線の昔ながらの街道。タイムスリップ電器店、文房具店を過ぎると、昭和レトロ商品博物館と赤塚記念館がある。
どれも見覚えがある昭和の商品を眺めていると、プルーストの「プチマドレーヌ体験」が起こる。幼い頃の日常が水に落とした水中花のようにパッと甦ってくる。
蝿取り壷は覚えていても、アルコールランプ使用の吸入器は知らない人がいる。きっと子どもの頃健康だったのだろう。
青梅鉄道公園を訪ねる
『いちえふ』(2)竜田一人 講談社 を読む。
自ら福島第一原発の廃炉現場で働く筆者の実録マンガ第二巻。
いよいよ筆者は高線量の現場で作業に従事する。しかし、筆者が直面するのは強い放射線だけではない。作業員が増えるにつれて悪化する住宅環境、交通事情、そして多重下請けのピンハネである。
高線量の現場は日当が高い。しかし、被曝量が20ミリ・シーベルトに達すると年度が変わるまで仕事ができない。現場の作業員たちは淡々と仕事をこなし、待遇をありのままに受け入れている。それだけに下請け構造の理不尽さと報酬の少なさにやり切れない思いがする。
第一巻もそうだが、この巻でも知られざる現地の状況、現場の実態が簡潔かつ生々しく描かれている。「被害者を忘れるな」という声が衰えないのはいいことだろう。だが、4年の間に何が前進し、何が停滞しているのか、現実があまりに知られていない。
特に、ジャーナリストたちがだれも継続的に現場に入ろうとしないのは、ジャーナリズムの衰退どころか「死」に等しい。
首相はメディアへの圧力を批判されて「その程度で萎縮するのはおかしい」と居直っているそうだ。当たっているのが何とも腹立たしい。
みわよしこ『生活保護リアル』日本評論社 2013 を読む
著者は企業内研究者から科学ライターになった人。友人の生活保護受給をきっかけに制度の実態を知り、多くの当事者に直接話を聞いて問題点をまとめた。
例えば、少なからぬ受給者が制度の利用を「後ろめたく」感じている実態。(これをスティグマと呼ぶ。)日本国憲法では全ての国民が「健康で文化的な最低限度の生活」を営む権利が保障されているのに。
生活保護での支援額は憲法で定められている「健康で文化的」な生活を維持するのには不十分である。その部分が忘れられて「最低限度の生活」だけが一人歩きしている。
生活保護の話題によく出てくるのは母子世帯だが、この本では障碍者世帯も取り上げられている。特に大変なのは親や配偶者の虐待・暴力が原因で精神を病んだ人たちだ。
彼らは何とか自立して生きようとしている。しかし、行政は保護件数を減らすため「家族に頼れ」と圧力をかけてくる。家族によって深く傷つけられた心と「後ろめたさ」の板挟み。読んでいる私の胸も締めつけられる。
民主的な社会の基礎は「他者を想う心」である。他者への無関心から生まれる「バッシング」が、社会の土台を少しずつ崩していることに警鐘を鳴らす本だ。
『風雲児たち 』(みなもと太郎) 25巻を読む
25巻はポサドニック号事件(対馬事件)が中心。
『浮浪児1945‐: 戦争が生んだ子供たち』 石井 光太 (著) を読む。
そうした動きの中で忘れられているのが「浮浪児」として差別された戦災孤児や家出した子ども、今で言うストリートチルドレンたちだ。映画『砂の器』1974(監督:野村芳太郎)では、加藤剛が演じる主人公・和賀英良が戦災孤児であり、それがトリックの一つになっていた。
私が子どもの頃、まだ上野の地下道には物乞いをする人たちがいた。その数年前までは家のない子どもたちがそこを根城にしていたのである。敗戦後すぐに闇市にあふれた子どもたちはどうやって生きていたのか。その後、彼らはどのように生きたのか。これまで真相は隠されていた。
著者は苦労して元浮浪児たちに話を聞き、戦争の最も大きな被害者は子どもであることを明らかにしていく。無計画な戦争を始め、国民を徴用し、敵国に逆襲されると国民を切り捨て、敗戦後軍人だけが恩給をもらう国。
日本人人質殺害を契機として、憲法九条を削除しようという動きが顕在化している。それは国家の無責任を免罪することに他ならない。戦後の浮浪児は「見捨てられる子ども」「生活者切り捨て政策」という現代の問題に直結している。
『デ・クーニング展』を見る。
ブリヂストン美術館の展覧会。改めてじっくり見ると、デ・クーニングの抽象表現主義は戦前と戦後の芸術表現をつないでいることがわかる。
色彩はフォーヴのように、形態は分離派のように、しかし対象との距離はキュビズムやシュールレアリズムより近い。確かに対象は大きく歪められているが、フランシス・ベーコンのように抑鬱的でもない。
抽象の名に相応しく、重い存在の意味づけから離れて、彼が描いた「女」たちは明るい画面の中で微笑む。近づくと荒々しいタッチに目を奪われて気づかない明るさ。それは画面から遠く離れて初めて現れる。常設展に飾られた、ブリヂストンが所蔵する3枚のモネ「睡蓮」と同じ明るさだ。
絵画の連続性を味わえる興味深い展示である。
『東京難民』監督:佐々部清 2014 を見る。
意欲作。
平凡な大学生が親の失踪を契機に転落していく。
除籍、職探しの失敗、ネットカフェ難民、ブラックアルバイト、路上生活。
どこにも口を開けている現代社会の危うさがリアルに描かれている。
私の学生時代、自活している学生はいくらでもいた。
それが可能だったのは「学費年間12万、家賃月2万、アルバイト月収8万」程度で生活できたからだ。
今は当時に比べ「学費10倍、家賃3倍、アルバイト月収1.4倍」である。
若者(だけではないが)が苦境に陥る原因は明らかだ。
政治の目的は正義の実現であり、放縦な経済と向き合って社会政策を実行するのが政治家だ。
政治が経済の奴隷になれば、共同体秩序は崩壊する。
それを正面から描く映画は少ない。
映画の中にも格差が投影されているのか。
『それでも夜は明ける』(12 Years a Slave)監督:スティーヴ・マックイーン 2013 を見る。