こんなのどう?
『鑑定士と顔のない依頼人』 ジュゼッペ・トルナトーレ監督・脚本 2013 を見る。
原題は The Best Offer 。 ジェフリー・ラッシュ、ドナルド・サザーランドの大物が出演。映画音楽はエンニオ・モリコーネ。
大物監督に大物俳優、大物作曲家。役者は揃っているのだが、物語が今ひとつ。
童貞鑑定士がワガママお嬢様に籠絡されていく様が陳腐。
鑑定士は名探偵モンクと同じ神経症だが、頭は良くない。
オートマトンが重要な鍵を握っていると思わせて、結局無関係。つまらん。
美術館にある有名な女性の肖像群が、実は贋作だという設定も面白い。しかし、これもストーリーには無関係。
私なら、お嬢様を陰で操っていたのは実は機械人形だった、というオチにする。
邦題もいかがなものか。原題は「これはお買い得!」。
『キリコ展』を見る。
汐留パナソニック・ギャラリーでキリコ展を見る。
戦前の作品は数点で、戦後~60年代を中心にした展示である。
晩年のキリコは自己模倣と批判されるような反復作品が多い。
戦前の作品と比較すると、やはり昔の方がよい。
それにしても、どこから考えても「形而上絵画」はおかしい。
哲学の立場から言うと「形而上学的絵画」だろう。
『ミレー展』を見る。
三菱一号館、ボストン美術館収蔵のミレー展。バルビゾンとその周辺の画家たちの作品で構成されている。
フランスが豊かな農業国であることがよくわかる作品群。
ミレーの他には、コローとモネが同時代に描いた風景画が興味深い。
モネはその10年後に『印象 日の出』を描くが、コローの作品には既に印象派的な光の戯れが見られるのだ。
『ウフィツィ美術館展』を見る
ロスアラモスが国立公園に?
昭和レトロ商品博物館(青梅)を訪ねる
『ひみつのひでお日記』を読む
『私のマーガレット展』を見る
『種村季弘の眼 迷宮の美術家たち』を見る。
『造反有理』立岩真也 青土社 を読む
1960年代後半から1970年代の東大を中心にした精神科の若き医師達の闘争をまとめた意欲作。ただし、資料の大半は筆者の「生存学」ホームページで読める。この本は一種のインデックスである。それにもかかわらず、本の全体から60年代の熱気が蘇ってくる。精神医学に少しでも詳しい者なら「あの医師も、この医師も、運動に関わっていたのか!」といささかの驚きを禁じえないはずである。
私の高校時代、青年医師たちがヘルメットをかぶって精神医学会壇上を占拠したニュースが流れた。それは台弘東大教授の糾弾でもあり、同時に当時の精神医療全体への批判であった。私が理解できたのは、そのうちのロボトミー糾弾(いわゆる精神外科)くらいであった。ちょうど政府が精神科患者に対する保安処分を検討していた時期と重なって、特に注意を引いたのだろう。「カッコーの巣の上で」が公開されるのは数年後のことである。
今、立岩が本を書いたのは「当事者が次々に亡くなり、資料も散逸していく」からである。立岩自身も「本当のところはよくわからない」と正直に告白しているが、闘争の全体像はなかなかつかめない。しかし、東大赤レンガ病棟自主管理に参加した多くの青年医師が、自らの全存在をかけて患者と、そして病と対峙し、格闘していたことは明らかである。今日の精神医療が様々な不祥事を経験しながらも「患者への支援」として取り組まれているのは、多くがかれらの功績なのである。その闘いが全共闘運動と結びついたのは、そのような真摯さから考えて当然であり、東大闘争敗北後のかれらがそれに屈せず地域医療などでなお実績を挙げたのは、赤レンガ病棟があったからだ。
最近、『ガロという時代』を読んでいると「オレは少年時代から社会主義に幻想をもっていなかった」などと自慢げに語る批評家を目にした。生まれてから一度も権力との闘いの中で自己を省みたことのない輩が、このような暴言で全共闘を(知りもしないで)否定するのは許しがたい。
まだ闘いは終わっていないのだ。
『 原子爆弾の誕生―科学と国際政治の世界史』読了
全体を読んで総括。
1960年代の少年時代、日下実男の書いた『最新科学の驚異』が愛読書だった。「原子力」の章には、エンリコ・フェルミがシカゴ大学で最初の原子炉を作ったと書いてあった。
「誕生」を読んでわかったことは、フェルミの製作したのがプルトニウム239生産用の黒鉛炉(カーボンパイル1)だったこと。高純度の黒鉛キューブ中央に穴を開け、ウラン235の濃度を高めたウラン238のペレットを入れる。それを球状に積み重ね、段の隙間に何枚かの金属フォイルを貼ったベニヤ板を差し込んで制御棒とした。
設置場所は大学構内とは言え、運動場片隅の使われなくなった地下倉庫だった。放射能漏れに備えて、安全な場所を探したのだ。「誕生」に描かれた核開発で特に重視されているのが被曝対策であることは示唆的である。
CP1は黒鉛炉なので、これの発展形がチェルノブイリ原発ということになる。チェルノブイリの炉は燃料ペレットを収めた黒鉛キューブを格納容器上部から供給し、使用済み核燃料キューブを容器底部から徐々に回収する構造だった。
実はこの構造も核燃料開発の過程で既に使われている。フェルミのパイルで中性子を浴びたペレットは、ロスアラモスでアルミ缶の中に詰められ、ハンダを流し込まれた。これをアルミチューブに装填したのが世界初の核燃料棒だ。燃料棒は横積みされ、パイプの隙間には鉛の制御棒が差し込まれた。(現在の原子炉は、70年経ってもこの形式を踏襲している。)燃料棒パイプの片側から燃料缶を入れ、使用済みの缶は他の端から押し出されて水を満たしたプールに落ちる。ハンダを溶かしてペレットを回収すると、そこから核分裂生成物のプルトニウム239が得られる。それが世界初の爆発実験に使われ、2号機が長崎に投下された「ファットマン」の核物質であり、戦後の核軍拡競争はこうしたプルトニウム・プラントから生み出された。
フェルミの「原子炉開発」という記述だけを読めば、まるで彼が「原子力発電」を始めたかのように見える。しかし、原発などは後日の、全くのオマケであった。
つづく
『バレエ・リュス展』を見る